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つながり天国51―心は形を求める―要約資本論19

日記・小説、文学・恋愛
12 /12 2018
心は形を求め、形は心を求める
 例えば心を文字にする。絵にする、音楽にするなどか。仏像もそうだとか。仏教は間違ったことを教えているが。贈り物―お歳暮も感謝の心を形にしたものか。最近は商売、商売で心がなくなっているか。
 あるいは、何か相手の望むもの、望む行動などを行うのも、感謝を形にすることだろうか。
 俳句や短歌、詩なども心を形にすることか。歌もそうだろうか。
 ★ゆらゆらとヤカンから湯気師走かな

 「色即是空、空即是色」は大ウソ
 色(しき)―形あるものは空―つまり無い、無いものはすなわち有る―などというのは実際と合っていない。地球はあるし、人間はある。沢山のものがある。
 喜怒哀楽―悲しみはあるし、喜びもある。苦しみも怒りもある。無いと思えばないのだ、などというのはおかしい。無いと思っても、あるものはある。
 無いと思うことが「悟り」だなどとごまかす。「お前さんは悟ってないのだよ」と。うそつき。あるものを無いという。分かっていないのはお前さんの方だろう。人々を惑わし、間違った考えを広めるのはやめるべきだ。
 創価学会や公明党の腐敗堕落ぶり、権力へのすり寄り、こびへつらいはひどいものではないか。仏教が間違っていることを証明している。
 要約資本論19
(54)<要約
 商品の内部にある使用価値と価値の対立が、外部の対立として表される。
 外部の対立―二つの商品の関係では、価値が表示される商品(A)は、使用価値としてのみ重要で、
 それで価値が表現される商品(B)は、交換価値としてのみ重要だということ。
 こうして、一商品の簡単な価値の形は、商品に含まれている使用価値と価値の対立が、外部の対立として現れる現象形態である。

 <おもしろく>
 内部対立―内部での対立。
 外部対立―外部での対立。

 内部対立―使用価値と価値の対立。
 外部対立―商品Aの使用価値と商品Bの交換価値の対立。
 内部の対立が外部の対立として表されているのが、一商品の簡単な価値の形である、という。内部の対立が外部の対立として表される。
 一つの商品での内部の対立が、商品と商品の関係でも表われる。商品Aは使用価値が問題なのだが、商品Bは交換価値が問題になる。

(55)<要約>労働生産物はどんな社会状態でも使用対象だが、労働生産物が商品になるのは、支出された労働をその生産物の価値として表すような、歴史的な、一つの時代においてのみである。
 商品の簡単な価値の形は、同時に、労働生産物の簡単な商品の形である。また商品の発展は価値の形の発展と一致する。

 <おもしろく>
 原訳文には「対象的属性」などという言葉が出てくる。対象としての属性、そのものの性質といった意味だろうか。どうしてこんな難しい言葉が必要なのか。分かりやすく言う気がないのだろうか。
 商品―支出した労働をその生産物の価値として表すと、労働生産物は商品となる、という。そのように表すのは、一つの歴史的時代の産物なのだと。
 歴史的時代。一つの時代。商品が存在するのは一つの時代に過ぎないのだと。
 縄文時代のような時代。弥生時代のような時代。貴族時代のような時代。武士時代のような時代。みな消えた。今は資本家時代なのか。
    “時代”       中島みゆき
 そんな時代もあつたねと
 いつか話せる日が来るわ
 あんな時代もあったねと
 きっと笑って話せるわ 
   ……
 まわるまわるよ時代はまわる
 喜び悲しみくり返し
 
(56)<要約
 単独な価値の形だと、一商品Aの価値は他の、ただ一つの商品のみで示される。しかし、この商品がどんな種類のものかはどうでも良い。
 だから、商品Aが、他のあれこれの商品と価値の関係を結ぶのに応じて、さまざまな簡単な価値の表れが生まれる。

 <おもしろく>(A)は簡単な価値形態ということだったが、簡単ではなかった。
 相対的価値形態と等価形態の二つの形態が説明され、商品は交換価値という表われを取るけれども、その本質は人間の労働だということが示された。
 そこで交換されるのは、同じ人間の労働である、と。商品の「価値」とは人間の労働なのだ。交換から価値が生まれるのではない。
 したがって、「商品は使用価値と交換価値である」という認識から、「商品は使用価値と価値である」と発展した。
 そうして、労働生産物が商品になるのは、労働をその生産物の価値として表す一つの時代においてのみなのだ、と。商品の時代性、限界性が示された。
 さらに、商品Aの使用価値と、商品Bの交換価値が対立して、次の段階へと発展していく。これは外部対立であり、内部対立は使用価値と価値である。
 簡単な価値形態は展開された価値形態へと発展していく。
 なかなか難しい。さらに追求していこう。
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つながり天国50-自由とは必然性のこと―要約資本論18

日記・小説、文学・恋愛
12 /11 2018
自由とは必然性のことである
 こう、逆説的に言うけれども、例えば引力という必然性を知って、月へ行く自由を手に入れる。
 資本主義の法則を知って、資本主義から自由になれる。
 だから資本論を読もう。
 要約資本論18
(52)<要約4、簡単な価値形態の総体
 本章の初めでは、世間のやり方で、商品は使用価値および交換価値であるといったが、これは正確ではなかった。
 商品は使用価値および「価値」である。
 商品は、その価値が自然の形と異なる、独自の、交換価値という形をとるや否や、二重のものとして自らを表すが、
 商品は、孤立した考えからは決してこうした形を取らない。
 常に種類の違う第二の商品との価値の関係、交換の関係でのみ、こうした形を取る。
 だが、このことが分かれば、先の言い方も害があるわけではなく、短縮の役に立つ。

 <おもしろく>
 最初、商品は使用価値と交換価値として示された。
 商品―使用価値
    \交換価値
 正確には、第二の商品との関係で、
 商品―使用価値
    \「価値」
 という形を取る。
 何が違うのかというと、商品は孤立していなくて、第二の商品との価値関係、または交換関係を考えるからだという。
 交換価値と価値とが区別されている。
 「価値」というのは、人間的労働であり、それが交換されるのだ、と。
 だから、商品とは使用価値であると共に、人間の労働でもあるといえる。
 区別するということは一つの発見だろう。分けることが必要だ。
★憎むべきと愛すべきとの夏野分
 憎むべきものは沢山ある。が、愛すべきものも沢山ある。すべてを憎むことも、すべてを愛することもウソだろう。やはり分けなくてはいけない。

(53)<要約>我々の分析は、商品の価値の形は、商品の価値の本来持っている性質から生まれるのであって、価値および価値の大きさが、交換価値から生まれるのではないことを証明した。
 重商主義者たちは、貨幣をその完成した姿とする等価形態に重点を置く。
 これに反して、自分の商品をどんな価格ででも売り飛ばさなくてはならない、近代の自由貿易の商人たちは、相対的価値形態の量の面に重点を置く。
 その結果、彼らにとっては、商品の価値も、価値の大きさも、交換関係以外には存在しないのであり、こうして、日々の価格表の勘定書きの内にのみ存在する。

 <おもしろく>
 重商主義者―国家の保護、干渉によって有利な貿易差額を取得、国富を増大させようとする考え方。
 自由貿易―国家が外国貿易に制限も保護もしないこと。

 ここでは価値が交換価値から生まれるのではなく、商品の本来の性質から生まれるという。本来の性質とは、人間的労働ということだろう。価値は労働から生まれる。
 重商主義者とか自由貿易商人とかの話はどうゆう意味だろうか。
 重商主義者は国家の保護の下に、商品をより高く売りたいというのだろうか。自由貿易の商人は同じ値段でもより沢山手に入れたいというのだろうか。 
 彼らは価値が見えないのだ。人間的労働が見えない。そんなことはどうでもよい。交換にこそ関心がある。いかにより多く儲けるか、金儲けができればよいのだ。交換のなかにこそ価値を見る。売り買いで儲ける。
 柄谷行人(からたにこうじん)著「マルクスその可能性の中心」(講談社学術文庫)という本がある。その62頁にはこう述べられている。
 「だが、広い意味で商品交換以外に、剰余価値を生むものはないというべきである。生産過程も、商品所有者の「交換」において考えられねばならない。
 マルクスは、産業資本は流通過程から剰余価値を生むのではなく、生産過程から得るのだと言おうとしているように見える。
 しかし、生産過程そのものは価値と関係ないのであり、価値は、それ故に剰余価値もまた、常に交換過程からしか得られないのである。」
 これはマルクスの考えと全く反対である。
 これまで見てきたように、価値は労働から生まれる。生産から生まれる。
 柄谷行人は、商品が価値であることを、労働を否定している。事実に反している。何の理解力もない。浅はかなアホか、大ウソつきか、どっちかだろう。
 こんなことをいう者が、いかにも自分はマルクスを知っているかのように、経済を知っているかのように、いかにも自分は真の知識人であり、文化人であるかのようにふるまうのはチャンチャラおかしい。憎むべき対象だろう。
 労働しない者はこんなものなのだろう。

つながり天国49―要約資本論17

日記・小説、文学・恋愛
12 /08 2018
改正入管法成立、
 低賃金、使い捨て外国人労働者が増えるのか。低賃金、不安定日本人労働者が増えるのか。
 経団連など資本家、金持ちが喜んでいる、安く使えて儲かると。くそどもが。
 外国人労働者よ、日本に来るな !
中国通信機器大手―華為技術(ファーウェイ)の幹部逮捕
 カナダやアメリカは勝手に人を逮捕できるのか。人権、人権ー大ウソだ。技術を盗んだだと。CIAなどどんどん盗んでいるのではないか。勝手なことをよく言うよ。
★薄日さし赤と黄色の山光る
★冬の日やミニトマト赤くベランダに
★気を使われ心使われ冬日ぬくし
要約資本論17
(50)<要約>アリストテレスは、貨幣の形が価値の形の発展した姿にすぎないことを明白に述べている。
 「5枚の布団=一軒の家」は、「5枚の布団=若干の貨幣」と区別されるところはないと。
 彼は言う―「交換は同等であることなしにはあり得ないが、同等ということは、比較し測ることができることなしにはあり得ない」
 しかし、彼はここで立ち止まって価値の形のより以上の分析をあきらめている。
 「しかし、種々さまざまの物が比較し、測ることができる」-すなわち、質的に等しい―「ということは、真実にはあり得ないことである」と。
 こうした、等しく置くことは、さまざまのものの性質にとって表面的なことであり、「現実の欲望のための間に合わせ」に過ぎない。
 
 <おもしろく>
 アリストテレス―古代ギリシャの哲学者。プラトンの弟子。

 アリストテレスが出てきた。紀元前384年生まれ、322年死去とか。
 「弁論術」と「詩学」という著作が残っている。どうゆうことを説いたのか。勉強しないとよく分からない。ギリシャ。
 ここでは貨幣について述べたことをマルクスは取り上げ、「より以上の分析をあきらめた」と述べている。
 どうゆうことか。

(51)<要約>家と布団は同じものを持っているから、両者は同じだといえる。その同じものとは―人間の労働である。
 ところが、すべての労働が同じ人間の労働として、同じ重要さを持つことが分からなかった。
 ギリシャの社会は奴隷労働に基づいていて、労働力が同じでないことを基礎としていた。労働が同じということは、人間が皆同じであるという考え方が、すでに国民的に定まっているときにのみ、明らかになる。
 それは商品の形が労働の生産物の一般的形であり、商品の所有者として人々が相互に関係することが支配的であるような社会で、初めて可能である。
 アリストテレスの天才は、商品の価値について、貨幣の形が商品と商品との関係と同じであり、その発展したものであることを発見した点で輝いている。
 ただ、彼は生活した社会の歴史的限界に妨げられて、この同じであるという関係が「真実には」なんであるか、見出すことはできなかった。

 <おもしろく>
 奴隷労働―奴隷の労働。奴隷の存在する社会。

 奴隷という。人権を認められず、労働を強制され、売買された人。アメリカの黒人奴隷もある。
 賃金奴隷―資本主義下の賃金労働者を奴隷に例えて言った言葉。
 労働者は労働力を売る自由を持っている。誰にいくらで売るかは自由だと。
 が、売らないと生きられないとなると、やはり売らないといけない。売らない自由はない。中には売らないで、ホームレスになる人もいるかもしれないが。ホームレスの多くは売りたくても売れないでそうなるのだろう。
 労働者は、いわば「自由な奴隷」だろうか。自由だが、自由ではない。
 金持ちなら、売らないで生きられるかもしれない。労働しないで生きる。遊んで生きる。もっぱら買う人になる。
 そうした金持ちは、労働こそ尊いとは思わないだろう。労働者こそ偉いなどと思わないだろう。金こそ尊い。金さえあれば何でもできる。労働者は下等で、金持ちは偉い。尊い。金持ちだから。
 とても人間が同じだなどと思わないだろう。貧乏人を見下す。
 労働者は賃金奴隷として扱われ、さげすまれている。

つながり天国48-人民力倍増―要約資本論16

日記・小説、文学・恋愛
12 /06 2018
人民力倍増 !
 議会制代議制民主主義は、再選、再選で独裁者を生み出している
 衆議院議員の多選回数(ブログ―エンタメの殿堂より)
   17回一人(自由党小沢)
   16回一人(自民党)
   14回一人(自民党)
   13回2人(自民党麻生、立憲民主党菅)
   12回8人(すべて自民党)
   11回4人(すべて自民党)
   10回10人(自民8人、立憲1人、無所属1人)
   9回21人(自民11人安倍、立憲1人枝野、公明5人、共産2人志位、無所属2人)
   8回39人(自民23人、希望2人、立憲2人、公明7人、維新1人、無所属4人)
   7回39人(自民24人、立憲5人、希望6人、共産2人、公明1人、無所属1人) 
 合計126人だろうか。これに6回、5回の人数を加えると約200人位だろうか。ボスになり、支配者になっている。
 200人ほどが国会を支配し、政治を支配している。これは独裁ではないか。とても民主主義とは言えないだろう。

 イタリアの五つ星運動の市民参加型民主主義を学ぼう
 「日本が売られる」(幻冬舎新書)の233頁で、堤未果さんは、イタリアの五つ星運動の、市民参加型民主主義を紹介している。
 大事なことは、政治家に丸投げせず、自分たちで決めることなのだ。だから、自分たちの中から代表を議会に送り込む。
 当選したら給料は一般平均と同額、任期は一人2期までとする。
 大企業や多国籍企業から献金を受けない。ネットではなく、直接顔を見ながら対話して、人間関係を作る。

 参加型交代制民主主義で、みんなの力を2倍にすれば、世の中を変えられる
 例えば、「人間を売らない、日本を売らない会」を作ろう。
 この会はみんなでやる。誰かに独占させない。交代でやる。したがって、既成の政党や関連団体の議員、役員、党員、構成員は会の役員になれないとする。
 参加型交代制民主主義を追求すれば、みんなの力は2倍にも3倍にもなるだろう。そうすれば世の中を変えられる。日本を変えられる。
  
要約資本論16
(48)<要約>例えば、亜麻布を作る機織りが、抽象的人間労働として亜麻布の価値を作ることを示すために、その等価である上衣を作る裁縫業が感覚的で具体的労働として向き合う。
 だから、具体的労働が、それと対立する、抽象的人間労働の表われる形(現象形態)になるということは、等価形態の第二の独自性である。

 <おもしろく>
 第一の独自性は、使用価値が価値(交換価値)の表われる形(現象形態)になることだった。
 第二の独自性は、具体的労働が抽象的労働の表われる形(現象形態)になるということだという。
 独自性―独自に持っている。他とは違う。
 これが等価形態だと。一つの物がその対立する物で見える。上衣が亜麻布の表われる形(現象形態)とでもいうのだろうか。
 改めて現象形態とは何か。
 「ビギナーズ資本論」(マイケル・ウェイン著・長谷澪訳、鈴木直監訳・筑摩文庫)には、「現象形態」についてこんな文章がある。(12頁)
 「資本論の主眼は、貨幣、利潤、資本、その他の経済的カテゴリーがなぜ、そしていかにして、それらを規定している社会的内実を積極的に隠蔽(いんぺい)するのかを、探究することにある。」
 社会的内実―本質だろうか。カテゴリーとは根本的な概念のこと。隠蔽―隠す。「ビギナーズ」-初心者のためと言いながら、この本もなかなか難しい。
 220頁にはこうある。
 「物事がどう見えるかということ(現象形態)と、それが実際どうあるかということ(その本質)は違うのだ。」
 214頁にはこうある。
 「現実の関係を見えなくさせ、まさにその反対物を提示する。こうした現象形態を土台として、労働者を資本家のあらゆる法的概念、資本制生産様式のあらゆる神秘性、そのあらゆる自由幻想、俗流経済学のあらゆる護教的詭弁が成り立っている。」
 護教論―キリスト教の真理を弁護する目的を持つ神学の一部門。
 詭弁(きべん)―言い回しの巧みな、ごまかしの議論。
 現象形態―本当、なかなか難しい。本質とは違うという。
 太陽が地球の周りを回っているように見える。これが現象形態か。実際は地球が自転しながら、太陽の周りを回っている。これが本質か。
 見かけにだまされる。本質を知るのはなかなか難しい。

(49)<要約>裁縫業という具体的労働は、無差別な人間の労働として、亜麻布を作る機織りの労働と同じ形をとる。
 裁縫業は商品を生産する他の労働と同じように、私的労働なのに、他の商品と交換できる社会的労働になる。
 こうして、私的労働が、その対立する社会的労働になることは、等価形態の第三の独自性になる。

 <おもしろく> 
 第三の独自性―私的労働が社会的労働になることだという。
 第一の独自性は、使用価値が価値(交換価値)の表われる形になる。
 第二の独自性は、具体的労働が抽象的人間的労働の表われる形になる。
 これで等価形態の独自性が三つになった。いずれも対立物を見出している。
 使用価値に対して―価値(交換価値)
 具体的労働に対して―抽象的人間的労働
 社会的労働に対して―私的労働
 どうゆうことなのだろうか。一つのものの表れがその対立物で表れる。一つのものが隠されるのか。本質が隠される。等価形態は真実を隠すのか。
 後に、貨幣が等価形態にあることを考えると、貨幣がこうしたものになるということだろうか。

つながり天国47―要約資本論15

日記・小説、文学・恋愛
12 /04 2018
★師走うす日赤と黄色の山光る
★お歳暮配達走り回って汗をかく
★失踪実習生時給700円以下か2870人どこで暮らす
要約資本論15
(45)<要約>どんな商品も、自分自身を等価として、自分自身と関係することができない。その商品は等価として、他の商品と関連しなくてはならない。
 
<おもしろく>
 商品Bが等価となるのは、他の商品との関連の中でのみだという。自分自身との関係ではない。その関連の中で、等価という価値の形となる。自然の形から価値の形に変化した。

(46)<要約>相対的価値形態では亜麻布の価値を上衣と同じものとして表す。そこでは一つの社会的関係がある。
 等価形態では反対に、上衣がそのありのままで価値を表すということである。
 上衣は等価形態を、直接交換が可能という性質を、生まれながらに持つように見える。
 ここから等価形態の謎が生じる。この謎が、経済学者のブルジョア(資本家)的、いい加減な目に写るのは、やっと等価形態が貨幣の形で目の前に完成して現われる時である。

 <おもしろく>
 原訳文は、一つの文章が長くて本当に分かりにくい。
 ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだ時もそんな感想を持った。
 何かを追求しようとしたら、こうした執着というか、執念、あるいは粘着性といったものが必要なのだろう。あっさりしていたり、簡単にあきらめたりしていては、問題は解明されないのだろう。
 簡単には解決しない。疑問に思ったり、何かを成そうと思ったら、とことん追求することが必要なのだ。
 しかし、長い。しつこい。いらいらする。分かりにくい。
 何が言いたいのだろうか。こうゆうことではないか。
 謎だという。相対的価値形態では、価値を別の物であらわす。
 しかし、等価形態はそうではない。そのままで、自分自身で価値を表す。
 今、亜麻布と上衣の関連について考えているのに、上衣はその関連とは関係なく、等価形態を、直接交換が可能であるという性質を、生まれながらに持っているように見える、と。
 なぜなのか。なぜ持っているように見えるのか。
 貨幣について触れているけれども、貨幣もそれ自体が価値を持っているように見える。貨幣さえあれば何でも交換できる。買える。
 さらに考えていこう。

(47)<要約>等価として役立つ商品は、抽象的人間労働の産物であり、また有用的具体的労働の産物である。
 だから、抽象的人間労働が具体的労働として現れ、等価として役立つ商品になる。
 例えば、上衣が抽象的人間的労働の表れとして意義を持つとすると、裁縫業は抽象的人間的労働を実現させるものとして意義を持つ。
 亜麻布の価値を表す上では、上着を縫う裁縫業が役に立つのは、上衣という一つのものを作る点にある。その労働は亜麻布を作る労働と同じである。
 こうした価値観を作るためには、裁縫業そのものは人間の労働だという、抽象的性質以外何も見出してはいけない。

 <おもしろく>
 抽象的人間的労働と、有用的具体的労働という、労働の二つの面が出てきている。亜麻布の価値を表しているのは、上衣を作る具体的労働ではなく、抽象的人間労働だという。
 そしてその労働は、亜麻布を作る労働と同じ、である。つまり、どちらも抽象的人間労働である。亜麻布を作る抽象的人間労働と、上衣を作る抽象的人間労働。同じ労働である。

susumumusi

戦後を生きてきて、70余年。今頃ブログなどとなかなか難しい。ぜひ分からないところをいろいろと教えてほしい。あれこれと経験した中で、何か若い人にも参考になるところがあるような、そんなブログになったらよいのだが。FC2ブログへようこそ!